大判例

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最高裁判所第二小法廷 昭和54年(あ)886号 決定

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人前堀政幸、同前堀克彦の前告趣意のうち、判例違反をいう点は、所論引用の判例は事案を異にし本件に適切でなく、その余は、憲法一四条違反をいう点を含め、実質はすべて事実誤認、単なる法令違反の主張であつて、いずれも刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。

なお、原判決が、近時解明されてきたふぐの毒性、京都府におけるふぐ取扱いについての規制、府の行政指導に基づくふぐ料理組合における講習等その判示する諸事情に徴し、京都府のふぐ処理士資格をもつ被告人には本件とらふぐの肝料理を提供することによつて客がふぐ中毒症状を起こすことにつき予見可能性があつた旨判断したのは相当であり、この点に所論のような法令違反はない。

よつて、同法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

(木下忠良 栗本一夫 塚本重頼 鹽野宜慶 宮崎梧一)

弁護人前堀政幸、同前堀克彦の上告趣意

原判決は経験則に反する事実認定の下に、大阪高等裁判所が昭和四五年六月一六日同庁昭和四四年(う)第一九一号被告人正賀伸に対する業務上過失致死被告事件について言渡した判決(刑事判例月報第二巻第六号六四三頁以下)の裁判例に反する法令の解釈・適用をなし、その法令適用の誤の故に罪とならない事実を罪となる事実となすに至つておるから、その誤が判決に影響を及ぼすことが明かであるのみでなく、延いてすべて国民は法の下に平等であるとする憲法第十四条に違反するから、原判決を破棄しなければ著しく正義に反する。

一、原判決が容認した第一審判決は、

被告人は、京都府知事からふぐ処理士並びに調理師の各免許を受け、昭和四一年ごろから京都市中京区西木屋町通四条上る紙屋町三五七番地所在の料理店「政」において、ふぐなどを調理し同店の来客に提供する業務に従事していたものであるが、昭和五〇年一月一五日午後八時四〇分ごろ、同店に客として訪れた坂東三津五郎こと守田俊郎(当時六八歳)に対し、とらふぐの刺身などのふぐ料理を提供した際、とらふぐの肝臓には毒物であるテトロドトキシンが多量に含まれている場合がありこれを食すると、いわゆるふぐ中毒により死亡する危険があるから、とらふぐの肝臓を調理して客に授与することは厳に差し控えるべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、とらふぐの肝臓数切れ(重量十数グラム)を調理して右守田俊郎に提供して食せしめたため、同人をして翌一六日午前四時四〇分ごろ、同市右京区安井馬塚一八番地泉谷診療所において、ふぐ中毒に基づく呼吸筋麻痺により窒息死させたものである。

との事実を認定しこの事実に、刑法第二一一条前段、昭和二五年京都府条例第五八号をふぐ取扱条例第一三条、第七条、刑法第五四条第一項前段の各規定等を適用して被告人を有罪としておるのである。

二、しかし、被告人が守田俊郎にとらふぐの刺身などのふぐ料理を提供した際、被告人がとらふぐの肝臓数切れを調理して同人に提供した事実(但しその数切れの重量が十数グラムであるとする事実を除く)、並に守田俊郎がそれら数切れのとらふぐの肝臓を食したためふぐ中毒に因り死亡した事実はこれを証拠上認めることができるけれども、原判決がその余の原判示事実を認定しておるのは経験則に反する事実認定のもとに法令の解釈・適用を誤つておるのである。

即ち右事実の内、被告人が調理したとらふぐの肝臓数切れを守田俊郎に授与(提供)した事実が前示ふぐ取扱条例の規定に違反する事実であることは明白であるけれども、右事実を捉えて被告人がふぐ料理業者としての業務上の注意義務を怠つたものとすることはできないのであり、したがつて守田俊郎のふぐ中毒とその中毒死の事実につき被告人が業務上過失致死の刑責を問われるべきものではないのである。

そして本件上告趣意はこのことを訴えんとするものであるが、この訴えの基調は

(一) 被告人が、守田俊郎に対しとらふぐの肝料理を提供するとき、そのことによつて同人がふぐ毒に中毒することについて予見可能性があつたとすることはできない。

(二) 京都府ふぐ取扱条例第七条がふぐの肝臓・卵巣など有毒部分の調理・授与等の一切を禁止しておることと、刑法第二一一条の規定に定める業務上の過失とは法理上次元を異にするものであつて、右の禁止違反と右の業務過失とは決して同じものではない。

(三) ふぐ料理業者がふぐの肝臓を調理して客に提供授与することと客がそのふぐの肝臓料理を食することとの間には、それを食するか食しないかの客の自由な判断による独立した行為が介在するのであるから、ふぐ毒による中毒の危険が、強調されればされる程、そして客がその危険を認識できておればある程、その客は授与されたふぐの肝臓の料理を食することの危険を回避する能力を具有しておるのである。

ということに在るのである。

三、ところで原判決は、被告人については前述の予見可能性が十分に認められると判示し、その理由について詳しく判示しておるのである(原判決第二丁裏九行目以下第六丁表一行目まで参照)。

(一) しかし、原判決が「近時のふぐ毒に関する研究によると」して判示しておるふぐ毒に関する脱示は「近時」とは言いながら既に二、三十年も前から学問的に分つている一般的知識であつて決して特に目新しいものではないのであり、したがつてまた科学的に異論はないが、この程度の知識ならば世間の大方のもの、少くともふぐ料理を嗜好しあえてふぐの肝臓料理を嗜好する者には十分理解されておるところである。

(二) ところが、ふぐ毒の中毒については原判決も説示するとおり、ふぐの肝臓料理を食する人々の個人差があるし、またその時その時のその人の健康状態のかかわりもあるし、食したふぐの肝臓の部分差にも因るとせられておるのである。

(三) かくて叙上のことは科学は早くからふぐの肝臓が有毒であり、完全な除毒の方法はないことは、これを証明してきておるけれども、人がふぐの肝臓料理を食しても中毒しないのは何故かを未だ解明しえていないということが言えるのである。

(四) ところで、ふぐの肝臓料理を食して中毒するかしないかの事実について、われわれが今日論議しうるのは我が国民が古来から現在までその食生活の中でのふぐの肝臓料理を食した経験があつてのことであることを忘れてはならないのである。

そしてこの経験は、われわれの先祖以来人々が長年に亘り、数多くその食生活の中で積み重ねてきた経験であつて、この経験が科学的には「食べられない」はずのふぐの肝臓を経験的には「食べられる」ように、してきておるのでる。

かくて、我が国民は先祖伝来の伝統的水洗や煮沸の方法によつて、ふぐの肝臓のふぐ毒を稀釈することができることを知つておるのであり、そしてそのようにして、ふぐ毒を稀釈して調理したふぐの肝臓の切片数切れ少量(多分一〇グラム以下)を食するならばそれによつて中毒することなく、その美味を味わうことができる事実を証明してきておるのであり、この証明によりこの事実は食生活の経験則として早くから確立してきておるのである。

しかるに、原判決は、我が国民の食生活におけるこの伝統的な水洗と煮沸を骨子とするふぐ毒稀釈の経験則を非科学的な俗説とさげすんで、予見可能性の論議上無価値なものとして斥けておるのである。

なるほど右のような方法で調理したふぐの肝臓料理を食べたの者の中で時にふぐ中毒を起したものが皆無でなかつたことは事実である。

ところがそのような少数例はいわば例外的事実であり、しかも前述の経験則上無害のはずの調理方法により調理したふぐの肝臓料理を食べたのに何故中毒という例外的事象を生ずるかについては原判決も説示するとおり主として個人差を想定するほかないとすればそのような個人差は凡そ予見可能性の外に在ると言うべきであり、このような予見不可能なことがあるが故に、経験則上無害であることが明かに認められる水洗・煮沸による伝統的調理方法によつてふぐの肝臓を調理して食することを危険の現在と認識することは生活の知恵即ち経験則によつて是認されておる国民の食生活の法則に背馳するものである。

(五) 以上の如く考察し来ると、原判決が被告人の過失を肯定する論拠として判示する「予見可能性」は科学的・抽象的・法則的知識としての危険の認識の域を出でないものであつて、上述した伝統的調理方法による無害化という経験則に即しての実証的・具体的・実践的行為としての危険の認識とは異質のものであると言わねばならないのである。

(六) したがつて被告人が前述の伝統的調理方法によつて調理した本件のふぐの肝臓料理を守田俊郎に提供したこと、および同時に同席で同人と同じふぐの肝臓を調理したきもの一部の料理品を食した同人以外の者にとつてその料理品が全く無害であつたことが証拠上明白である本件において、単にふぐの肝臓を料理品として同人に提供したとの事実を認め、この事実にもとづいてその食品提供の時被告人が中毒の危険を予見すべきであつたとすることはできないのである。

原判決の如きは「それはそうでない」とするものであつて、かくの如きは、科学万能の科学中毒に罹り、科学的知識(抽象的可能性の理論)と科学的知識をふまえながらも経験的知恵によつて実践せられる人びとの営為の実践的事実(具体的可能性の事実)との区別を正解しないものと言うべきである。

(七) これを裁判例についてみると、冒頭掲記の大阪高等裁判所判例においては正に上述するところと法理上相通ずる判断が既に示されておるのである。

ところが原判決は右の判例の事案は、本件と事案を異にするとして第一審判決が右判例に違反するとする控訴趣意を斥けたのである。

そこで事案を異にするとする理由を探ねると、「右判例の事案は、昭和四一年に発生したもので、当時は未だふぐ毒に関する文献が殆んどなかつたうえ、神戸地方においては、なごやふぐは毒性が弱く、水洗いを十分にすることによつて除毒されるものと信じられており、保健所でさえ調理方法、分量を規制するのみで肝を提供すること自体はこれを容認していたことなどの社会的背景事情を主たる理由として、被告人たる飲食店業者としては、なごやふぐによつて中毒症状を起すことをとうてい予定し得なかつたと判断し、その過失責任を否定したものであるから、本件とは明かに事案を異にし、適切ではない」というのである(傍点は当弁護人らがそれを附した)。

しかし右判示には原審裁判所の判断、否、判断の前提となる事実の認識に誤があるのである。

何となれば、原判決は先には「近時のふぐ毒に関する研究によると……」と判示し(原判決第二丁裏一一行目)で「近時」と説示するのに対し、茲では「昭和四一年」「当時」と説示しておるのであつて、その文脈上からみて原判示の「近時」とは「昭和四一年以後」を意味することが明かであるところ、原判決がふぐ毒に関する研究の成果として説示しておる事項はすべて昭和四一年以前に既に明かにされておるものであり、京都府がその科学的知識にもとづいて既に昭和二五年中にふぐ取扱条例を制定施行しておる事実が認められるからである。

すなわち原判決は、原判決が判示するふぐ毒の研究に関する成果は前示判例の事案が起つた昭和四一年以後の科学的研究の成果であると誤解しておるのであり、その誤解にもとづいて本件事案は前示判例の事案と事案を異にすると判断しておるのであり、原判決がそのような重大なる誤を犯しておることは誠に遺憾なことである。

よつて前示判例の事案と本件事案とがその本質を同じうしておることは誠に明白であるから、原判決が経験則――昭和四一年当時と昭和五〇年当時ではふぐ毒の危険性と除毒可能の方法と限度についての科学的研究による一般的知識水準は同じことであるという事実にもとづく社会生活の経験則――を誤解して本件事案についての被告人の予見可能性の認定を誤つておることは明白であり、したがつて原判決が前示大阪高等裁判所の判例に違反する判断をしておることも亦明白である。

また、原判決が、前示判例の事案はなごやふぐの肝を食した事案であり、同事件の裁判では「神戸地方においては、なごやふぐは毒性が弱く、水洗を十分にすることによつて除毒されるものと信じられており、保健所でさえ調理方法・分量を規制するのみで肝を提供すること自体はこれを容認していたことなどの社会的背景事情を主たる理由として被告人たる飲食業者としてはなごやふぐによつて中毒症状を起こすことをとうてい予見し得なかつた」と判断したものであると説示しておるところも亦事実の認識に欠くるところがあるのである。

何故なら神戸地方においては京都地方に比しふぐ中毒の事例が多いのではないかと推測される(原審証人前田昌彬の証言参照)のであり、またなごやふぐは毒性が弱いので水洗いで除毒できると言うが如きは事実に反するのであり、却つてなごやふぐの肝臓こそ猛毒があり、とらふぐの肝臓にある毒の方が弱いものである事実が知られておる(末尾添付のふぐ毒の強弱について解説しておる文献の写参照)のであるから、神戸地方において原判決判示のような一般市民の信じ方が普及していて保健所までがそのような一般市民の信じ方に従つて、ふぐの肝臓の料理を客に提供することを容認していたということは到底ありえないことであるからである。

すなわち原判決が言う「社会的背景事情」なるものは、神戸地方では京都府条例が規制するような飲食業者に対するふぐのきも料理の提供を禁止していないという事実を意味するものとしてしか通用しないのである。

そこで、そのような社会的背景事情が存する所以を考えると、それはふぐのきもの毒は水洗いを十分にすることによつて相当高度に稀釈することができる(除毒できると信じておる世人はない)からそのように毒を稀釈したきもを少量食する程度ならば中毒することはないと信じてよいとする生活経験にもとづく経験則が社会的に是認せられておることに在ると言うほかない。

したがつて、原判決が言う「社会的背景事情」を理由に神戸地方で起つた前示判例の事案のふぐ中毒死の事案と京都府下で起つた本件ふぐ中毒死の事案とを差別すべき論拠は何もないのである。

(八) かくて我が国民の食生活における習俗的認識として、ふぐの肝臓料理の調理者および嗜好者の間に普及しておる同料理についての認識は有毒なふぐの肝臓といえどもこれを十分に水洗いまたは煮沸する方法すなわち上述の我が国の伝統的調理方法によつて調理すればふぐ毒を相当程度にまで稀釈することができる(最近の新聞報道によれば我が国の伝統的水洗いの方法により高程度のふぐ毒稀釈が可能であることが証明されているとのことである―末尾添付の新聞記事参照)から、あとに若干のふぐ毒が残つておるにしてもその肝臓料理の少量を食するのならば決してふぐ中毒するものではないという事理と事実についての認識度であると認められる。

したがつて国民一般もふぐ料理殊にふぐの有毒部分の料理品を食することを禁止する必要を認めてはおらず、却つて伝統的調理方法で調理せられたふぐの肝臓の料理品少量を食したところふぐ毒に中毒した人を不運な人として同情はするけれどもそれ以上には何も問題にしないのである。この事実は我が国民一般がふぐのきも料理を食しても中毒しないとの予見をもつていること、つまり中毒についての予見可能性を否定しておることを示すものである。

そして右のような一般市民の認識と予見とは京都地方と神戸地方とで相異るところはないのである。

それ故、被告人が我が国の伝統的調理方法によつて自らふぐ毒を稀釈して調理したふぐの肝臓の料理を守田俊郎らに提供する時、被告人には守田俊郎がその料理を食したら中毒することの予見可能性を欠いていたと認めることができるのである。

しかるに原判決が前示判例に違反し、被告人がした本件ふぐ肝臓の調理における過失の有無につき何らの審理もせずして被告人には守田俊郎のふぐ中毒についての予見可能性が認められるとしておるのは既述のとおりふぐ毒についての抽象的危険はすなわち具体的危険であるとの誤つた認識によるものであつて到底首肯できないのである。

四 ところが原判決は、京都府ふぐ取扱条例は「ふぐの肝臓等有毒部分を客に提供してはならない旨の刑法上の注意義務を取締りの観点から別に明文化したものと解されるから」、弁護人の「条例の有無で刑法上の注意義務の有無を決めることになり不合理である。」との所論は採用の限りではない旨判示しているのである(原判決第六丁裏八行目から第七丁表三行目まで参照)。

(一) しかし原判決が京都府ふぐ取扱条例が、刑法上の注意義務を取締の観点から別に明文化したものであると判示しておるのには、右条例の立法趣旨を誤解しておるふしが見受けられるのである。

何故なら右条例は刑法上の注意義務を明文化したものではなく、京都府内におけるふぐ毒の中毒者の発生を未然に防止するため一般国民が京都府下所在の料理飲食店においてふぐの肝臓等有毒部分を食する機会を皆無にしもつてふぐ中毒者が生ずるのを防止しようとする目的に出でたものであるからである。

すなわち右条例では、ふぐの肝臓など有毒部分を提供、授与することを禁止しておるだけであり、特に用語に用心して、客がその料理品を食し又客にその料理品を食せしめることまでに言及してはいないのであつて、客がそれを食するかどうかには何の干渉もしておらず、したがつて客がそれを食さなければ中毒は絶対に起らないのである。

それ故右条例の規定では具体的にふぐ毒の中毒が起ることには何のかかわりもなく、ただ抽象的にふぐ毒を警戒し中毒を生ずるおそれのある機会を無くしようとするに止まることが明かである。

逆言すると右条例はふぐ中毒を起したかどうかとはかかわりなく、(したがつてふぐ中毒が起らなかつた場合であつてもそのこととかかわりなく、)機能するのであるから、もともとふぐの有毒部分の料理を食べる以前の問題であり、それ故に刑法上の注意義務を明文化する分野に立入ることはありえないのである。

再言すれば右条例の機能はふぐの有毒部分の料理を客が食するか否かにかわらずそれを食する以前に終るのであり、刑法上の注意義務は右条例の機能が終つて後に客がその料理品を食する時に始まるのである。

(二) これを例えれば麻薬売買の禁止命令を犯して麻薬を売渡しただけではその麻薬を買つた者がそれを飲んだり注射して中毒し又は死亡したことについての刑責を問われることはありえないのである。

またいわゆる諸多の公害防止条例をみても、それらの取締規定に違反する事実が存在するだけでは人の身体生命を害するとの刑責に問うことはできないのであつて、特に「人の健康に係る公害犯罪の処罰に関する法律」が立法される必要があつたのである。

これらの事例は、取締法令そのものが直接刑法上の注意義務を明文化しておると解することがいかに法律上の逸脱であるかを教えておるのである。

五、しかし叙上の所論にして容れられず、京都府ふぐ取扱条例は刑法上の注意義務を明文化したものであるとの原判決の見解を相当とするのであれば、ふぐ中毒の危険を防止するための注意義務は京都府ふぐ取扱条例の如きの有無とはかかわりなく、料理飲食店業者をはじめ行為能力の認められる総ての人々、換言せば何びともふぐの有毒部分を他人に提供又は授与することを差控えなければならないということになるのである。

ところが、このような注意義務が合理的であるとして社会的に受容されるならば、このことの反面、原判示が判示するとおり、ふぐの有毒部分が含むふぐ毒は十分なる水洗いまたは煮沸その他いかなる調理方法を用いても除毒されることはなく幾分かは残存するのであつて、それを食するときは、科学的には不明な個人差を原因または条件として中毒を起すかも知れないから何びともこのような危険なふぐの有毒部分を調理した料理品を食してはならないという自分自身の危険回避の注意義務が社会的に容認されていることをも意味するのである。

そうだとすると、たとえ調理してもそのように危険なふぐの有毒部分を他人に提供(授与)してはならない注意義務は、却つて京都府ふぐ取扱条例の規定が定めるとおり、ふぐの有毒部分を他人に提供又は授与することを差控えるところ限りで終り(尽されることになり)、たとえ被告人の如くそのような注意義務に反した者といえども、その注意義務違反の責任はその限りに留まるのであつて、そのような明白な危険が現在するに至つた時その危険を回避すべき注意義務を負う者は、却つて、提供されたそのふぐの有毒部分の料理品を食するか否かを自ら決定しうる者、すなわち現在するふぐの有毒部分の料理品の危険につき認識ある者、これを本件について言えば中毒死した守田俊郎その人であると言わねばならないのである。

何故なら守田俊郎がこの理を弁えていたことは、いわゆる食通であり、ふぐ毒についての知識を有しながらふぐの有毒部分の料理品を嗜好し、本件会食当時のふぐの肝臓の料理品を食するのを避けようとしていた同席者に対し、その料理品が安全であり美味であるから食べるよう勧めておる事実によつて認められるからである(原審証人森下純子の証言参照)。

かくて原判決判示の注意義務の見解から出発して法理を究めれば却つて守田俊郎の本件中毒死は同人が自らにとつて予見可能であり、かつ回避可能である現在する危険を回避しなかつた結果であつて、かかる場合被告人の刑責は京都府ふぐ取扱条例違反の限りに留まり守田俊郎のふぐ毒中毒についまで刑責を問わるべきでないことは明白であるのである。

六、以上述べたとおり、原判決には冒頭に記述したとおり諸々の誤がある。

殊に守田俊郎が何故本件ふぐの肝臓の料理品を食したかに想を到すとき同人が我が国の伝統的ふぐ料理の調理方法を信頼していた事実を知ることができる。このことは原判決の判示するような中毒の予見可能性を否定するものであり、前示大阪高等裁判所の判例の見解によつて法理を正すべきことを教えておると言えるのである。

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